すべてを失い、バラバラになった町
酒をつくることで”生きた証”を証明したい
町から離れ、揺らぐアイデンティティ
東日本大震災後に発生した福島第一原発の事故により、4月22日から福島第一原発の半径20km圏内が避難区域に指定され、そこで暮らす人々は自分たちが生活していた場所に立ち入ることができなくなった。”日本一海に近い酒蔵”として江戸時代末期から続く鈴木酒造店は、福島第一原発から7km圏内の浪江町に酒蔵を構えていた。創業以来、「磐城壽(いわきことぶき)」は祝いの酒、暮らしの酒として地元の漁師たちを中心に愛されている。くしくも、3月11日は酒造りにおいて仕込みの最終日。1年の苦労をねぎらう「甑(こしき)倒し」の日を境に、あらゆる物事が一変してしまったのだ。
「津波が来たのは地震から40分後でした。私は消防団に入っているので避難誘導にまわりましたが、ぎりぎり逃げられる人、声をかけてもどうにもならない人をたくさん見てしまいました。風が海のほうへフッと吹いて振り向いたら、ちょうど10mぐらいの津波が来ている瞬間で……。私の酒蔵は本当に海の間際でしたから、そこで”蔵はなくなったな”と思いました。その後、私も消防ポンプ車を乗り捨て、まわりにいるみなさんに”車を降りて逃げろ!”と声をかけながら走って逃げました」
どうにか高台へ避難し、翌朝、捜索活動をはじめようとしたところで原発の事故が知らされた。
「捜索に入ろうと消防団で集まった時点で10km圏外に退避ということになりました。私たちはどうしても地元の方たちを探したかったんですけど、それができずに離れるというのは本当に悔いが残って仕方がないです。その後、私は自分の住んでいたところにも戻れず、”自分が生きていた証”が消失したです。地元の方々も同じ思いで、”自分が何者であるか?”アイデンティティそのものががすごく揺らいでいます」
つくることで”自分であること”を取り戻す
厳しく立ち入りが禁止されている避難区域。震災から2ヵ月が経過した5月、慰霊のため遺族らが一時的に町に戻ることが許され、数カ所の祭壇が設けられた。そこには奇跡的に残っていた鈴木酒造店の酒が上げられていたという。また、避難をしている住民からも「なんとか酒をつくってくれ、浪江町のものを残してくれ」という声をかけられ、鈴木さんは再び酒造りを行う決意を固めた。
「それまで私は勝手に自分の考えで酒をつくってきたので、酒は自分のものだと思い込んでいました。でも、地元の方が残っていた酒瓶を私たちの敷地などにまとめて置いてくださっていたり、いろんな応援をいただいて、つくってきた酒が本当にみんなのものだったんだなと強く思いました。地元の人たちもアイデンティティが揺らいでいますし、私の酒に関係を持ってくださったいろんな方がたくさん犠牲になっています。私は酒をつくることしかできないので、酒をつくることで亡くなった人たちの”生きた証”を証明していきたいと思っています。また、”酒をつくってこそ自分なんだ”ということも証明したいです」
1830年から続く鈴木酒造店の歴史は、鈴木さんの意志と酒蔵に酵母が残っていたことで再び動き始めた。しかし、酒蔵も生活していた町も失った状態からのスタートは容易なことではない。
「私たちの蔵があった場所には、20年ぐらいは帰れないと思います。地元の方々からは”お前がつくるなら、あの土地でつくらなくても磐城壽の酒になる”と心強い声をいただいていますので、今は放射能のことを気にせずに酒造りができる場所を探しています。ただ、課題としては資金面の他に、新しい場所で新しい人たちと環境を築かなければなりません。これは、地元の支援を失った人間としては大きなハードルですが”本当にいい酒をつくっていく”という強い気持ちで頑張っていきたいと思います」
環境も価値観もすべてが変化した今、鈴木さんの酒造りもまた、新しい意味を持ちはじめている。
「私は震災後1ヵ月、酒を口にしなかったんです。たまたま福島県内で同業者と酒を呑む機会があり、そのときに酒が持つ”前に進ませる素晴らしさ・力強さ”を感じたんですね。これからはその気持ちを届けながら、バラバラになっている地元の人たちをひとつにまとめていけるような酒造り、場作りをしたいと考えています」
一時帰宅の際に撮影された鈴木酒造店。地元の人たちが残っていた酒瓶を見つけて並べてくれていた。
(取材日:2011年7月9日 南会津にて)