当たり前の毎日が、どれほど愛おしく、尊いものなのかを思い知った、東日本大震災から4年半。震災が起こるまで、そこにあるすべてが当たり前すぎて気にすることすらなかった、自分の故郷「いわき」のこと。
その瞬間、私は東京にいた。次の仕事場へと移動する車の中で感じた、すさまじい揺れ。ビルから道路へと溢れ出る人々。急いで会社へ戻り、テレビをつけると、そこに映し出されていたのは津波で流される港の映像。ただ事ではない。見つめた画面の右上に表示される「小名浜港」の文字。私が生まれ育ったまちの港だ。故郷がなくなる?想像することのなかった現実に混乱しながらも、その瞬間、”何かしなきゃいけない”と強く思った。
いわきに戻ると、地元の仲間たちが物資配布や炊き出しを行っていた。物資倉庫で全国から送られてくる物資の仕分け作業し、間に日向ぼっこをしながら、先の全く見えない最悪の状況の中で、最高のこれからの話をした。とても楽しかった。もちろん大変な時だったけれど、そんな中での会話のひとつひとつが希望であり、救いだった。その時の思いがすべての始まりで、「地域活性プロジェクト MUSUBU」が出来た。こんな時だからこそ、自分たちも楽しみながら、おおくの楽しみやワクワクを生み出していきたい。誰かに伝えたくなる「いわき」を増やす、発見する。誇らしく思える故郷があるということの気付き。それこそが、「いわき」のこれからを変えていく糧になるのではと思った。
2011年6月、MUSUBUとして最初のイベントを開催。津波被害にあった沿岸地区のイベントホールをみんなで清掃し、ロックバンド「くるり」を招いて音楽ライブを行った。”楽しんでいけない”、そんな空気が世の中に漂う時期の開催だったが、蓋を開ければ、たくさんの笑顔溢れるライブとなった。この日を皮切りに、ジャンル問わず多くのイベントやプロジェクトを行ってきた。
2012年夏には、ロンドンから日本人ファッションデザイナー川西遼平さんを招き、子供たちと洋服の生地を作り、仕立てファッションショーを行う「London- Fukushima project」を実施。川西さんはこのプロジェクトの為、いわきに一ヶ月滞在。洋服の材料、制作スペース、はたまた宿の確保に至るまで多くの地元民の協力の元、プロジェクトは無事成功を遂げた。夜な夜な作りあげられる洋服に、皆が心躍らせた。長時間共にしたからこそ生まれた豊かな関係がそこにはあった。
2012年4月からは、原発事故により立ち入りが難しくなった桜の名所「夜の森」(福島県双葉郡富岡町)の桜を届ける「桜の森 夜の森」プロジェクトを始動。トラックの荷台を展示スペースに改造し移動写真展を行い、春の訪れと共に、福島県内・外に美しい桜を運んだ。このプロジェクトは、形を変えながら現在も続いている。Photo by Yuji Hisa
時が経ち、環境や感情の変化と共に、MUSUBUの活動も進化していく。地域企業とコラボレーションした新しいいわき土産の開発や、人・場所・ことを巡るいわきツアーの実施など、そもそも「いわき」にある地域の宝を見直し、磨き、伝え、体感してもらうようなプロジェクトが増えた。”大事なものは意外とすぐそばにあった“、なんてよく言う話だけれど、大切にすべきものは、ほんとにそばにあるような気がしている。
誰に言われて始めたわけでもないMUSUBUというプロジェクトは、楽しむことを忘れない限り、ずっとずっと続いていく。MUSUBUから生まれるあれこれから「いわき」を感じて、ちょっと「いわき」が気になったり、行ってみたいと思ったり、何かの際にふと「いわき」を思い出したりするようなことがあるとすれば、それほど嬉しいことはない。この記事を読んだ偶然のように、たくさんの偶然が集まって、「いわき」を感じることが必然になればいいなと思う。
文・宮本 英実 Hidemi Miyamoto
福島県いわき市地域活性プロジェクトMUSUBU代表。1984年、いわき市小名浜生まれ。高校卒業後に上京、音楽プロダクションでマネージメント、レコード会社でミュージシャンの宣伝担当をするなど、エンターテインメント業界にどっぷりつかる。東日本大震災で人生が一変、いわきと東京を行き来する日々が始まる。炊き出し・物資支援の活動から始まり、いわき市小名浜地区復興支援ボランティアセンターの立ち上げ、運営に携わる。2011年4月、地元の仲間と「福島県いわき市地域活性プロジェクトMUSUBU」を立ち上げ、人、地域、音楽、アートなどを結び、”ワクワク”を生み出す。また、フリーランスでエンターテインメント及び企業の広報・PR行う。2015年夏に渡米、現在ニューヨーク在住。遠くから出来る地元貢献の形を模索中。
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