山田八幡宮・大杉神社

活動地域:岩手県下閉伊郡山田町

インタビュー:佐藤明徳(さとう・あきなり)

「10年かかっても、山田祭をもとの姿に戻す」。震災直後から何度もそう語っていた佐藤宮司。山田祭は山田八幡宮と大杉神社、ふたつの神社からなる祭。初日は山田八幡宮の超重量級の神輿が1日中練り歩き、翌日は大杉神社の神輿が海上渡御を行い、連日朝から晩まで町は祭一色となる。津波と火災で町の8割が壊滅的被害を受け、沿岸部にあった大杉神社に残ったのは鳥居ひとつだけだった。5年が経過し、ようやく災害公営住宅が建ち始めたが、それより2年も前に大杉神社は山田町を見渡す山の上に再建され、山田祭は復活を遂げた。

この町に住む人にとっても、
故郷を離れた人にとっても、
“いつでも帰って来られる場所”を守っていく

山田祭りの復活まで

山田八幡宮の神輿を修理に出しているときに被災し、修理を中断しましたが、その後修理費用900万円の寄付を募ったんです。すると神社関係者や氏子をはじめ、約10ヶ月で1300万円もの寄付をいただくことができ、どうにか震災の翌年に山田八幡宮の祭を復活することができました。しかし、大杉神社の祭は神社自体が被災したので神輿を修復する前に社を再建しなければならない問題を抱えていました。

2013年、伊勢神宮の式年遷宮が行われた際に、神宮林から伐採した支援材をいただけることになりました。神宮林のヒノキを他の神社に提供するというのは、初めてのことだったのですが、それを受けて大杉神社の拝殿を再建。私が言うのもおかしな話ですが、世の中には目に見えない不思議な力があるのかなと思います。ちょうど拝殿を再建した頃に申請が通り、日本財団の支援でようやく大杉神社の神輿を修理に出せることになりました。それが2013年の祭が終わった翌日のことです。2014年9月、復元した神輿が戻ってきました。祭の前にお披露目の渡御をしたのですが、そのとき涙を流している方もいらっしゃいました。嬉しくて涙が出たのか、懐かしかったのかはわからないですけれど。こういった経緯があり、約3年で山田八幡宮と大杉神社両方の祭が復活しました。ここまで来れたのは関係者や氏子、郷土芸能関係者が強く求めていたというのが大きい。そういった力と運によって山田祭は復活できたのだと思います。

祭りを通じて育まれる
地元への意識

神社は心の拠り所と言われていますが、災害が起こったとき、本当に祭や神社が住んでいる人たちの心の支えになるんだなと再認識しています。故郷を離れた人にとってもそれは同じ。生まれ育った故郷を懐かしく思いますし、行き詰まったときに両親の顔や祭を思い出します。そういう人たちがいつでも帰ってこられる状況をつくりたいというのが、震災当時からの想いでした。そのひとつとして、祭をずっと続けていくこと。精神的に苦しいときもあるでしょう。祭を思い出して「今年も見に行こう」と、それを糧に頑張っていただけるように、今まで通り続けていきたいなと思っています。

祭は震災前より縮小していますが、10年、20年経てばこれよりもっと縮小する可能性もあります。子どもの数や人口の減少、祭に関わる人の高齢化。これは全国どこの神社も抱えている問題です。学校に働きかけて、子どもたちに郷土芸能を教えていくことも解決策のひとつ。小学校の授業や先生の研修会で神社や祭の話をする活動もしています。“数十年後には消滅する町”だなんて言われていますが、そうならないように踏ん張りたい。その地盤をつくるのが、我々の年代の役目です。若い世代が地元意識を強く持てるように、祭を通して伝えていきたいと思っています。

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2014年に大杉神社の神輿が復元され、震災後はじめて海上渡御が行われた。神輿を担いだまま海に入り、船に乗せる海上渡御は山田祭の見どころのひとつ。

(取材日:2016年8月)
photo:hana ozazwa

佐藤明徳(さとう・あきなり)
1961年岩手県山田町生まれ。山田八幡宮と大杉神社の宮司をつとめる。大杉神社は津波により流失。多くの氏子が被災するなかで祭の復活が望まれていた。町の活気を取り戻すため、故郷を離れて暮らす人のため、大杉神社と山田祭の復活に尽力。2011年には例年とはかたちを変え、境内のみで行う「復興祈願例大祭」を行った。祭の季節になると、毎年山田町に聴こえていたお囃子の音は震災後一度も途切れていない。

 

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