リアス・アーク美術館

活動地域:宮城県気仙沼市

インタビュー:山内宏泰(やまうちひろやす)/リアス・アーク美術館

津波の歴史も
地域をつくる文化のひとつ
文化を伝えていく者の責任とは

この地にとって3.11は
“想定外”ではなかった

宮城県の北に位置する水産都市・気仙沼は、津波とそれに伴う大規模な火災によって甚大な被害を受けた。気仙沼港から西に約3km、気仙沼市街を見下ろす丘の上に「リアス・アーク美術館」がある。津波の影響はここまでは及ばなかったが、地震の揺れで建物は大きく損傷した。この美術館は、気仙沼市と南三陸町が運営する公立美術館で、主に現代美術を紹介するとともに、1994年の開館以来、地域の歴史民俗系の常設展示室をもち、一般的な美術の定義以外に「地域文化を勉強する場所」として地域に根付いてきた。また、まちづくりに必要な”文化資源”の専門施設としての役割も担い「津波の歴史も地域文化のひとつ」ととらえ、かねてから津波の文化研究とその普及に取り組んでいた。つまり、山内さんにとって今回の震災は、決して”想定外”ではなかったのだ。

あの日、一階で作品の整理をしていた山内さんは、今までの人生で経験したことのない揺れに「間違いなく、とんでもないものが来る」と直感した。

「外に出たときすでに駐車場に避難してきている車があり、集まってきた人たちが口々に「6メートルの津波が来る」と言っていました。それから数分後です。「津波が見える」という声がどこからか聞こえてきて、すぐ屋上の端まで走って街を見ると白煙が上がっている状態でした。街が”やられている”のは、上から見ていてもはっきりとわかりました。」

山内さん自身も自宅を失い、一ヵ月を美術館で過ごしながら、この震災の記録活動を続け、約3万点の写真と約250点の被災資料(いわゆる瓦礫と呼ばれるもの)を収集した。
 
2006年、山内さんは明治三陸大津波(1896年)の記録を伝える展覧会『描かれた惨状 風俗画報に見る三陸大海嘯の実態』を企画・開催している。

「明治三陸大津波は、北が北海道・襟裳岬、南が福島の富岡町まで到達したという記録が残っているのですが、そこでの被害者・犠牲者の数が二万二千人と言われています。中でも震源が釜石沖だったということで岩手・宮城がやはり相当ひどい被害を受けました。われわれが暮らしているこのエリアもとんでもない壊滅的な被害が出ており、それが全部その地名入りで記録が残っているわけです。まさに今自分が暮らしている場所が、かつてそういう災害にあっているという情報が残っていた。それを皆さんに知っておいてほしく展覧会を企画しました。」

当初、「さばききれないくらいの来場者が来る」と予想していたが、気仙沼市の人口10万人に対し、入場者は1200人。学校団体で見学に来たのは美術館から一番近い学校のたった一学年だけ。

「相当ショックでしたね。ここまで関心、危機意識がないというのはどういうことなのだろうと。このリアクションを受けて、展覧会が終わったからと言ってこれで終わりにしてはいけない、と強く感じました。」

その2年後、山内さんは明治三陸大津波の記録を元にした小説『砂の城』を出版している。その中にこんな一文がある。”忘れるべきことは忘れる、伝えるべきことはどんなことがあっても守り伝えてゆく。そういう強さがなければ未来を築くことなどできないよ。それが私たちの仕事、いや、今を生きるすべての人間の義務なんだ。文化を伝えてゆくという事は命を繋いでゆくことと同じなんだよ。”

「去年の震災が起こるまでの間、私が一生懸命やったことの大きな成果というのはなかったと思います。でもそれらを『やっておいた』ということが、今回、自分でも少しゾッとするくらい意味がありました。自分にとって、これがいわゆる運命なのかなと今になり思っています。今回の震災は、私の中では「災害」というより「文化的な一大事」であり「文化的な転換期」です。そこをきちんと踏まえずに次に進んだら、この国は終わりだと思っています。それは恐らく、例えるならば「戦争」。”戦前””戦後”という言葉がありますが、今後は”震災前””震災後”という言葉が使われるようになるでしょう。そこに立ち会っているわれわれは、責任を持たないといけないのです

地域復興の「軸」となる
リアス・アーク美術館

リアス・アーク美術館は、今、地域にとってなくてはならない存在となっている。「これから復興を行っていく上で、地域が「軸となる文化資源」を失っては復旧も復興もありません。その中で『ぜひこの美術館がぶれない軸になってほしい』という要望がいろいろな人たちから出てきました。それは非常に力強く、われわれにとっての命綱となりました。それは、開館から十八年となる美術館が、いざというときに掴まるべきものを作ってきたからだと感じています。そして同時に、地域の人たちにとってもいざと言うときに掴まるべきものが美術館になってきていたということは、非常に大きいことだと思います。

今、当館では『東日本大震災の記録と津波の災害史』という常設展示室の準備を進めています(2013年4月オープン予定)。『私たちは何をすべきだったのか』あるいは『何をしてこなかったのか』、そういったことの反省をし、自分たちが暮らしているこの場所のことを考え、未来へつなげること、それが出来る空間を今後の常設として館の中に位置づけていきます

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「描かれた惨状 風俗画報に見る三陸大海嘯の実態」展より。
明治29年当時、明治三陸大津波での死者数は気象庁の公式発表で27,122人とされていた。その数字を可視化するため、27,122体の紙人形を手作りし展示した。

(取材日 : 2012年07月22日 宮城県気仙沼市)

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