AD BOAT PROJECT / 02

活動地域:岩手県釜石市・盛岡市

インタビュー:菅原 誠 / 佐々木洋裕(すがわらまこと/ささきひろやす)/アドボートジャパン

企業ロゴを船体全面に貼った「復興支援船」。
企業やブランド・団体からの支援金を船の購入資金の援助にあて、その企業ロゴをまるでF1レースカーのように船体にレイアウト。
支援をする側に対して「みなさんのお金でこのような漁船を購入できました」と明確に表現できる、被災地のためでもあり支援する側も納得できるプロジェクト。現在作成中のオフィシャルWEBサイトでは、支援先と支援する側のコミュニケーション手段を用意し、被災地の復興を共に実感することができる。この先何年、何十年も続く"継続的な復興"を目指したビジネスの提案である。

みんなの船がそろうまで
一緒に乗り切っていく

 2012年1月、釜石市尾崎白浜港に1隻の漁船が浮かんでいた。ブルーと白の船体が目をひく船の名前は「漁裕丸」。佐々木洋裕さんの新しい船だ。「AD BOAT PROJECT」が支援者を募り、船体に企業ロゴを掲載する〝復興支援船(AD BOAT)〞は2011年10月末に第1号が完成。佐々木さんの「漁裕丸」は2号目となる。漁を再開してちょうど5日目という佐々木さんの表情は半年前とは比較にならないほど晴れやかだった。

「7月頃はまったく新造船のあてもなく、中古船のあてもない状態でした。この船は青森に何回も通って譲ってくれる人を見つけたんです。12月28日にようやく修理が終わり、まずは父親の刺し網漁を再開しました。水揚げして2日たち、今から頑張ろうという気持ちになったところです。船が来てほっとしましたが、まだ沖に沈んでいる漁具を引き上げないといけません。期待と不安が入り交じった状態ですね」

 この日、尾崎白浜港に停まっていたのは「漁裕丸」のみ。新造船を待つ人たちは、いつ船が完成するのかさえ見えない状況だという。修理が完了した船を使い、養殖の棚入れを共同作業しているものの、出荷できるまでに1〜2年はかかる。まだ多くの人たちが先の見えない状況であることに変わりはない。

「震災直後は港全体の船がなかったので、本当にこの先漁師を続けられるのかと思いましたし、やはり海は怖いと心底思いました。でも、漁師を辞めようという気持ちにはまったくなりませんでした。こうして船を買って再開しましたが、仲間もみんな船が来るのを待っている状態です。みんなの船がそろうまで、港の仲間と一緒に震災を乗り切り、復帰し、前よりももっと活気のある浜にしていければと強く思います」

 「漁裕丸」の上で父親と一緒に作業をする佐々木さん。その傍らには、お手伝いをする小さな息子さんの姿も。佐々木さんが父親の背中を見て漁師を志したように、奮起する佐々木さんの背中をきっと息子さんも見ている。10年後、AD BOAT が幾隻もこの港に浮かんだとき、彼らの世代が船に乗ることになるのだ。

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これからの復興支援は
みんなが楽しめるものでないと続けられない

 2万人以上の人が訪れる日本最大の展示会「インターナショナルファッションフェア」。その会場の一部に、大漁旗が掲げられた「AD BOAT PROJECT」のブースが出展されていた。菅原さんが活動を開始してから約半年、個人・企業支援によるAD BOATはすでに4隻にもなるが、まだまだ支援を必要とする漁師たちは多い。菅原さんはより多くの人々にプロジェクトを知ってもらうべく、情報を発信し続ける。今でこそ、「俺の船もやってくれ」と漁師たちから応募がある状態だが、そこに至る道のりは決して容易ではなかった。

「とにかく前例のないプロジェクトなので、最初は漁師さんたちに理解をしてもらうことがいちばんの課題でした。企業に声をかけてお金を集めても、漁師さんが納得してくれなければ意味がありません。漁師さんたちはなかなか本音を話さないので、毎週会いに行ってコミュニケーションをとろうとしていました。少しずつ距離を縮めて話を聞いてみると、彼らは船体に企業ロゴを載せることに大反対だったんです。『船をカッコ良くして、お金がもらえて、そんないい話があるわけない』と。そこでひとりの漁師さんに『まずAD BOAT PROJECTで船をつくらせてくれないか?』と相談して、1号目が完成しました。そうしたら、今まで難色を示していた漁師さんたちが『カッコイイね』と言ってくれて。彼らの賛同を得られることができたので、僕の知り合いのファッション業界の方に声をかけていきました。前例ができると、実際に支援のかたちが目に見えるようになるので、支援しやすくなるんです」

菅原さんがこだわってきた〝目に見える支援のかたち〞。わずか半年で4隻のAD BOATが海に浮かんだのは、多くの人々がこうした支援を求めていたことのあらわれでもある。

「実は、僕自身も震災直後に海外の会社から支援金を預かっていたんです。それを赤十字や県に寄付したのですが、半年後に彼らから『あのお金は何に使われたの?』と聞かれても何も答えられなかった。それがすごく歯がゆかったんです。今、日本中のみなさんが東北を支援したいという気持ちだと思います。でも、何をしていいかわからない状況なんですね。そうしたときに、きちんと『みなさんの支援がこうなりました』と言えるシステムにしたかったんです。これから先、長期的な復興支援は明確でみんなが楽しみながらできるものでないと、続いていきません」

(取材 2012年1月18日/岩手県釜石市にて、2012年1月25日/東京都内にて)
Photo : Takeshi HOSOKAWA

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