イタリアンレストラン「ポルコロッソ」

活動地域:岩手県大船渡市

インタビュー:山﨑 純(やまざき じゅん)/イタリアンレストラン「ポルコロッソ」

震災直後でライフラインが停止するなか、大船渡市内でイタリアンレストランを営む山﨑純は、集められるだけの米と汲んできた水でおにぎりを握った。避難所に食事を届け続けた山﨑のもとには多くの仲間たちが集い、やがて毎日約2000食もの食事を届けるまでになっていた。2011年3月11日から市内のすべての避難所が閉鎖する日まで「被災者の自活が可能になるまで食事をつくり続ける」を目標にして活動。自身も2011年10月5日、センターにレストランを再開。市内の漁業、農業、飲食業、製造業者たちと連携し、継続的に発展していくまちづくりを目指している。

ここに生まれたことを誇りに思う
だから絶対、前よりもいい町にする

これ以上町の人を
失うわけにはいかない

 震災直後から毎日2000食ものお弁当をつくり、避難所や仮設住宅へと届けながら避難をしている人の”ご用聞き”も行っている団体がある。発起人は大船渡でイタリア料理店を営む山﨑純さん。3月11日、津波は山﨑さんのお店まで押し寄せたが、幸いにも浸水を免れた。とはいえ、電気・水道も止まり、調理場には鍋や皿が散乱。とても料理などできない状態のなか、山﨑さんは迷う間もなく米を買いに走った。集められるだけの米と汲んできた水、そしてロウソクの明かりを頼りにおにぎりをつくりはじめた。

「阪神・淡路大震災が起こったとき、私はローマにいて日本にいなかったんです。そのとき何もできなかった悔しさで”何かあったら、必ず自分にできる最大限のことをする”と決めていました。僕はコックなので、考える前に体が動いて食事を届けようとしていました」

しかし、山﨑さんひとりでは60個のおにぎりを握るのが限界。避難している多くの人たちに食事を届けようと思うと、どうしても人手が必要になる。頭を抱えていた山﨑さんのもとに、コックを夢見る高校生や友人たちが集まり、徐々に仲間が増えていった。さらには、全国から休日のたびに訪れる人、大船渡へ引越してきた人など、”ボランティア・リピーター”も増えていく。気がつけば、60個のおにぎりからスタートした活動の輪は広がり、1日で約2000食をつくれるようになっていた。すべての避難所がなくなり、すべての被災者の自活が可能になるまで食事をつくり続けること。これが山﨑さんの強い意志だ。

「僕らの町は津波で痛い目に遭い、たくさんの命が失われました。阪神・淡路大震災では仮設住宅に入居されてから200名以上の方が孤独死されたり、自殺する人もいらっしゃったり……。津波だけでこんなに多くの人々が亡くなっているのに、この先ひとりでもそういう方が出たらもうたまりません。ここから先は天災じゃなくて人災です。僕らができることでみんなが少しでも助かるならこの活動は続けていきたいです」

失ったものは大きいが
悪いことばかりじゃない

取材当日(2011年7月)、活動拠点となっている「リアスホール(大船渡市民文化会館)」にはお弁当箱がズラリと並んでいた。このお弁当だけでなく、人の手で届けられ、コミュニケーションを楽しみに待っている人たちも少なくない。食事を届けるなかで、山﨑さんはこの町に生まれたことの誇りに気づかされたと言う。

「震災後数日して、紙コップに入れたご飯とカレーを届けたら大の大人が泣くんですよ。家も家族も失って、暖房のない避難所の体育館でも、食事ができるのがありがたいって。ろくに食事もできていないのに、それでも譲り合う。ある小学校に食事を持っていくと『俺たちは食べているから、あっちの小学校に届けてくれ』と言われたので、僕が『今日何食べたの?』って聞くと、『朝も晩もおにぎり1個ずつ食べたんだ』って。全然食べてないのと同じじゃないですか。僕の町は海も山もキレイなところですけど、それよりも住んでいる人の心が美しい。震災で失ったものもありますが、震災のあとにいただいたものもすごく大きくて、悪いことばかりじゃないなと思いました」

愛すべき自分の町の魅力を発信し、情報発信基地になるべくお店を構えていた山﨑さん。震災後、その想いはより一層強いものとなり、この町を支える漁業・農業・飲食業・製造業が連携し、継続的に発展するまちづくりを目指している。

「もと通りに組み立てただけではダメなんですよ。農業も漁業も製造業も全部含めて前よりも絶対にいい町にしないといけない。これだけ世界から注目を浴びているのでしっかり立ち上がって、三陸気仙のすばらしさをアピールできるように伝えていきたい。失ったものはあまりにも大きかったですが、逆にいえばそれができるチャンスです。これから5年、10年、20年、30年と継続して発展していけたらと思います。ちょっと時間はかかりますが、必ずいい町にしますので、みなさんにはいずれ遊びにきていただきたいですね。三陸の海のもの、山のもの、おいしいものをたくさんご用意できると思います。そしたらぜひ、この町を見にきてください」

当たり前のことをすることが
誰かの励みになる

2011年3月11日からはじまった山﨑さんの活動は、同年8月末に岩手県内の避難所がすべて閉鎖されたことで、ひとつの区切りを迎えた。約5ヵ月間で届けた食事はおよそ17万食にもなる。避難所が閉鎖されたことを見届け、山﨑さんはようやく自分の店の再開に動きはじめた。

「仮設住宅に移られても、体が動かなかったり、お年寄りだったり、食事ができない人たちがいるんです。そういう方々に食事を届けていたんですが、震災によって社会が含んでいた問題や課題を浮き彫りにしてしまったんですね。最初の1〜3ヵ月は”食事は緊急性がある”ということで支援していただける部分もあったんですけど、3ヵ月をすぎてくると”もう緊急性がないだろう。それは行政の問題だ”と。市長とも話をしたんですが、”それを任意団体が背負っていくのは健全な社会じゃないだろう”と言われたんですね。最初はコックとしてできることをやりましたが、これからもコックとしてやらなくちゃいけないことがあるなと考えて、お店を再開することにしました。お店ができて、花輪が並んでお客さんが来る。それを見たときにやっぱりお店をはじめることも町にとっては大事なことなんだなと」

こうして2011年10月5日にイタリアンレストラン「ポルコロッソ」は再開。オープン日には、店内に置けないほどの花が届いた。それは山﨑さんの店に明かりがつくのを多くの人が待ち望んでいたということだ。

「お店をなくして仮設店舗ではじめた方もいますし、飲食店に勤めはじめた方もいます。みんなそれぞれ自分ができることをやっていく。特別なことではないんです。イタ飯屋がピザを焼く、パスタをつくる。当たり前のことですけど、今までやっていたことをもとに戻すということが、町の人にとってどれだけ励みになるか。炊き出しをしているときに、『あそこのお店、はじまったよ』というのがすごいパワーになりましたから。みんなが頑張って仕事をして”たまには外でおいしいものを食べよう”と、元気になってもらう場所がお店だと思うんです。本来のお店があるべき姿ですね。ちょっとでもみなさんが元気になれたらいいなと思います」

僕らの経験を
語り継がなくてはいけない

生産者、製造業、飲食店とが一体になって三陸の食を県外へも発信する一方、震災の体験を共有できる場所が必要だと山﨑さんは語る。

「少し前に、両親の墓参りに行ったんです。そしたら、お寺の境内に、昭和9年に建てられた津波の慰霊碑があったんですよ。小さい頃からそのお寺には何回も行っていますが、ちゃんと読んだことがなかったんです。読んでみると『震災は40年に1度は来る、津波が来たら高台に逃げろ』とちゃんと刻んであった。先人たちが残してくれているものを、教訓にできていなかったんです。たとえば、僕たちは避難所1ヵ所ずつ聞き取りをして、情報を集めた中で”どこで何をするべきか”と考えて動きました。震災の体験をしたこと、そこで得た教訓やノウハウを日本中・世界中の人と共有できるように情報発信ができる場所をつくらないといけないと思います」

もう二度と起きてはほしくない地震、津波。しかし、先人たちが私たちに残してくれたように、自然災害はいつか必ず来るものであることも、今回の震災がもたらした被害の甚大さも、忘れてはならない。

「震災直後は、自分の町をグチャグチャにした海や自然に対して怒りにも近い感情だったと思います。”なにしてくれてるんだよ!”と。でも、どれだけ自然が僕らに恵みを与えてくれているのか。津波は来るもの、自然は荒れるものだということを、僕らが忘れていたわけです。三陸の魚介類、野菜、おいしいものをまるごと復活させてお届けできるようにすることも、自然と上手におつきあいしていくことだと思います。防潮堤をつくったから津波が来ないというのは大きな間違いですしね。5年後、10年後、100年後でも、キレイな海はキレイなままで次の世代に受け渡す。たとえ田舎でも、そのほうが魅力的な町なんじゃないかと思います」

取材日:2011年7月10日、2012年1月18日 岩手県大船渡市にて
Photo:Takeshi HOSOKAWA

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ここに生まれたことを誇りに思う
だから絶対、前よりもいい町にする
これ以上町の人を
失うわけにはいかない
 震災直後から毎日2000食ものお弁当をつくり、避難所や仮設住宅へと届けながら避難をしている人の”ご用聞き”も行っている団体がある。発起人は大船渡でイタリア料理店を営む山﨑純さん。3月11日、津波は山﨑さんのお店まで押し寄せたが、幸いにも浸水を免れた。とはいえ、電気・水道も止まり、調理場には鍋や皿が散乱。とても料理などできない状態のなか、山﨑さんは迷う間もなく米を買いに走った。集められるだけの米と汲んできた水、そしてロウソクの明かりを頼りにおにぎりをつくりはじめた。
「阪神・淡路大震災が起こったとき、私はローマにいて日本にいなかったんです。そのとき何もできなかった悔しさで”何かあったら、必ず自分にできる最大限のことをする”と決めていました。僕はコックなので、考える前に体が動いて食事を届けようとしていました」
しかし、山﨑さんひとりでは60個のおにぎりを握るのが限界。避難している多くの人たちに食事を届けようと思うと、どうしても人手が必要になる。頭を抱えていた山﨑さんのもとに、コックを夢見る高校生や友人たちが集まり、徐々に仲間が増えていった。さらには、全国から休日のたびに訪れる人、大船渡へ引越してきた人など、”ボランティア・リピーター”も増えていく。気がつけば、60個のおにぎりからスタートした活動の輪は広がり、1日で約2000食をつくれるようになっていた。すべての避難所がなくなり、すべての被災者の自活が可能になるまで食事をつくり続けること。これが山﨑さんの強い意志だ。
「僕らの町は津波で痛い目に遭い、たくさんの命が失われました。阪神・淡路大震災では仮設住宅に入居されてから200名以上の方が孤独死されたり、自殺する人もいらっしゃったり……。津波だけでこんなに多くの人々が亡くなっているのに、この先ひとりでもそういう方が出たらもうたまりません。ここから先は天災じゃなくて人災です。僕らができることでみんなが少しでも助かるならこの活動は続けていきたいです」
失ったものは大きいが
悪いことばかりじゃない
取材当日(2011年7月)、活動拠点となっている「リアスホール(大船渡市民文化会館)」にはお弁当箱がズラリと並んでいた。このお弁当だけでなく、人の手で届けられ、コミュニケーションを楽しみに待っている人たちも少なくない。食事を届けるなかで、山﨑さんはこの町に生まれたことの誇りに気づかされたと言う。
「震災後数日して、紙コップに入れたご飯とカレーを届けたら大の大人が泣くんですよ。家も家族も失って、暖房のない避難所の体育館でも、食事ができるのがありがたいって。ろくに食事もできていないのに、それでも譲り合う。ある小学校に食事を持っていくと『俺たちは食べているから、あっちの小学校に届けてくれ』と言われたので、僕が『今日何食べたの?』って聞くと、『朝も晩もおにぎり1個ずつ食べたんだ』って。全然食べてないのと同じじゃないですか。僕の町は海も山もキレイなところですけど、それよりも住んでいる人の心が美しい。震災で失ったものもありますが、震災のあとにいただいたものもすごく大きくて、悪いことばかりじゃないなと思いました」
愛すべき自分の町の魅力を発信し、情報発信基地になるべくお店を構えていた山﨑さん。震災後、その想いはより一層強いものとなり、この町を支える漁業・農業・飲食業・製造業が連携し、継続的に発展するまちづくりを目指している。
「もと通りに組み立てただけではダメなんですよ。農業も漁業も製造業も全部含めて前よりも絶対にいい町にしないといけない。これだけ世界から注目を浴びているのでしっかり立ち上がって、三陸気仙のすばらしさをアピールできるように伝えていきたい。失ったものはあまりにも大きかったですが、逆にいえばそれができるチャンスです。これから5年、10年、20年、30年と継続して発展していけたらと思います。ちょっと時間はかかりますが、必ずいい町にしますので、みなさんにはいずれ遊びにきていただきたいですね。三陸の海のもの、山のもの、おいしいものをたくさんご用意できると思います。そしたらぜひ、この町を見にきてください」
当たり前のことをすることが
誰かの励みになる
2011年3月11日からはじまった山﨑さんの活動は、同年8月末に岩手県内の避難所がすべて閉鎖されたことで、ひとつの区切りを迎えた。約5ヵ月間で届けた食事はおよそ17万食にもなる。避難所が閉鎖されたことを見届け、山﨑さんはようやく自分の店の再開に動きはじめた。
「仮設住宅に移られても、体が動かなかったり、お年寄りだったり、食事ができない人たちがいるんです。そういう方々に食事を届けていたんですが、震災によって社会が含んでいた問題や課題を浮き彫りにしてしまったんですね。最初の1〜3ヵ月は”食事は緊急性がある”ということで支援していただける部分もあったんですけど、3ヵ月をすぎてくると”もう緊急性がないだろう。それは行政の問題だ”と。市長とも話をしたんですが、”それを任意団体が背負っていくのは健全な社会じゃないだろう”と言われたんですね。最初はコックとしてできることをやりましたが、これからもコックとしてやらなくちゃいけないことがあるなと考えて、お店を再開することにしました。お店ができて、花輪が並んでお客さんが来る。それを見たときにやっぱりお店をはじめることも町にとっては大事なことなんだなと」
こうして2011年10月5日にイタリアンレストラン「ポルコロッソ」は再開。オープン日には、店内に置けないほどの花が届いた。それは山﨑さんの店に明かりがつくのを多くの人が待ち望んでいたということだ。
「お店をなくして仮設店舗ではじめた方もいますし、飲食店に勤めはじめた方もいます。みんなそれぞれ自分ができることをやっていく。特別なことではないんです。イタ飯屋がピザを焼く、パスタをつくる。当たり前のことですけど、今までやっていたことをもとに戻すということが、町の人にとってどれだけ励みになるか。炊き出しをしているときに、『あそこのお店、はじまったよ』というのがすごいパワーになりましたから。みんなが頑張って仕事をして”たまには外でおいしいものを食べよう”と、元気になってもらう場所がお店だと思うんです。本来のお店があるべき姿ですね。ちょっとでもみなさんが元気になれたらいいなと思います」
僕らの経験を
語り継がなくてはいけない
生産者、製造業、飲食店とが一体になって三陸の食を県外へも発信する一方、震災の体験を共有できる場所が必要だと山﨑さんは語る。
「少し前に、両親の墓参りに行ったんです。そしたら、お寺の境内に、昭和9年に建てられた津波の慰霊碑があったんですよ。小さい頃からそのお寺には何回も行っていますが、ちゃんと読んだことがなかったんです。読んでみると『震災は40年に1度は来る、津波が来たら高台に逃げろ』とちゃんと刻んであった。先人たちが残してくれているものを、教訓にできていなかったんです。たとえば、僕たちは避難所1ヵ所ずつ聞き取りをして、情報を集めた中で”どこで何をするべきか”と考えて動きました。震災の体験をしたこと、そこで得た教訓やノウハウを日本中・世界中の人と共有できるように情報発信ができる場所をつくらないといけないと思います」
もう二度と起きてはほしくない地震、津波。しかし、先人たちが私たちに残してくれたように、自然災害はいつか必ず来るものであることも、今回の震災がもたらした被害の甚大さも、忘れてはならない。
「震災直後は、自分の町をグチャグチャにした海や自然に対して怒りにも近い感情だったと思います。”なにしてくれてるんだよ!”と。でも、どれだけ自然が僕らに恵みを与えてくれているのか。津波は来るもの、自然は荒れるものだということを、僕らが忘れていたわけです。三陸の魚介類、野菜、おいしいものをまるごと復活させてお届けできるようにすることも、自然と上手におつきあいしていくことだと思います。防潮堤をつくったから津波が来ないというのは大きな間違いですしね。5年後、10年後、100年後でも、キレイな海はキレイなままで次の世代に受け渡す。たとえ田舎でも、そのほうが魅力的な町なんじゃないかと思います」
取材日:2011年7月10日、2012年1月18日 岩手県大船渡市にて
Photo:Takeshi HOSOKAWA

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