佐藤鮮魚商店

活動地域:宮城県塩竈市

インタビュー:安達 良子(あだち りょうこ)/佐藤鮮魚商店

塩竈海岸中央鮮魚市場は塩竈市にいちばん最初にできた魚市場。安達さんは「闇市」の名で親しまれたこの場所で、鮮魚店「佐藤鮮魚商店」を営んでいた。津波は闇市をまるごと飲み込み、安達さんの店もすべてが流されてしまった。今後の闇市については、市の対応を待たなければならないのだが、安達さんはこの土地で商売を再開できることを望んでおり、現在は仮設店舗を探している。

命もある、気合いもある
支援してくださった方々に復興で恩返しを

戦後から続く”闇市”の消失

 生マグロの水揚げ日本一を誇る塩竈市。本塩釜駅の近くにあった塩釜海岸中央鮮魚市場は、そんな塩竈市にいちばん最初にできた魚市場だった。通称「闇市」と呼ばれ、地元の人だけでなく、観光客にも親しまれていた場所だ。しかし、2011年3月11日を境に威勢の良い魚屋さんの声も、行き交う人々の姿も消え、残ったのは津波に襲われ廃墟と化した市場の姿……。闇市の老舗として知られ、安達さんが家族で営んでいる佐藤鮮魚商店もその中にあった。

「震災当日の1週間くらい前にも地震があったんですよ。でも、それとは全然違う大きな揺れで、一歩店の外に出たらいろんなものが落ちてきました。私の父親がチリ津波を体験していて、警報が鳴る前に”津波が来ると思うから、実家のほうへ避難しよう”と言われて避難しました。兄は津波が来たときまで店にいたんです。車に乗せられるものだけ積み、高台にある駐車場に止めて、線路を歩いて実家に戻ってきました。その直後、津波があがってきました」

 翌日、安達さんは変わり果てた店の姿を目の当たりにし、言葉を失う。そこにあったはずのものがなくなり、足下には膝の高さまで水が残り、歩くのもままならない状態。店の番台は500mほど離れた御釜神社まで流されていた。

「何もかもがなくなっていたので、”もうダメだな”と思ったんです。でも、電話が通じるようになり、県外のお客さまからたくさん電話をいただきました。ガソリンがなくなったときに、山形県のお客さんが100リットルのタンクにガソリンを運んできてくださったり、地元のお客さまからも”いつお店開けるの?”と言っていただいたりして、やっぱり店を再開させたいと思うようになりました」

途絶えることのなかった
お客さんからの連絡

000263_02.jpg

 震災から100日が経過しても、闇市は津波を受けたままの状態で残されている。しかし、安達さんは仮設店舗での再開に向け、意欲を見せる。

「ここを壊してプレハブを建てようかと考えていますが、全然目処が立っていません。そこへ、仮設店舗があるという話を聞いたので、応募をしたところです。とりあえずそこが第一歩のスタート。私たちは命もあるし、気合いもある。あとは仮設店舗を確保して、自分たちの力でやれるとこまで頑張ります」

 震災以後、安達さんのもとに地元や県外のお客さんからの連絡が途絶えることはなかった。食糧や衣類などの支援物資も届けられた。長い間、闇市で愛されてきた佐藤鮮魚商店の再開を多くのお客さんも待ち望んでいる。

「どんなに小さなことでも、できることからゆっくりとやっていければ良いなと思います。よく”頑張って”と言われるけど、もうみんな頑張っているのでね。頻繁に連絡をいただいたり、支援物資を届けていただいたり、多くの方に助けていただいたので、私たちは復興で恩返しをしたいと思っています。必ず復興しますので、遠い目で優しく見ていてください」

取材日:2011年6月30日 宮城県塩竈市にて
Photo:Reiji OHE

[:en]

命もある、気合いもある
支援してくださった方々に復興で恩返しを
戦後から続く”闇市”の消失
 生マグロの水揚げ日本一を誇る塩竈市。本塩釜駅の近くにあった塩釜海岸中央鮮魚市場は、そんな塩竈市にいちばん最初にできた魚市場だった。通称「闇市」と呼ばれ、地元の人だけでなく、観光客にも親しまれていた場所だ。しかし、2011年3月11日を境に威勢の良い魚屋さんの声も、行き交う人々の姿も消え、残ったのは津波に襲われ廃墟と化した市場の姿……。闇市の老舗として知られ、安達さんが家族で営んでいる佐藤鮮魚商店もその中にあった。
「震災当日の1週間くらい前にも地震があったんですよ。でも、それとは全然違う大きな揺れで、一歩店の外に出たらいろんなものが落ちてきました。私の父親がチリ津波を体験していて、警報が鳴る前に”津波が来ると思うから、実家のほうへ避難しよう”と言われて避難しました。兄は津波が来たときまで店にいたんです。車に乗せられるものだけ積み、高台にある駐車場に止めて、線路を歩いて実家に戻ってきました。その直後、津波があがってきました」
 翌日、安達さんは変わり果てた店の姿を目の当たりにし、言葉を失う。そこにあったはずのものがなくなり、足下には膝の高さまで水が残り、歩くのもままならない状態。店の番台は500mほど離れた御釜神社まで流されていた。
「何もかもがなくなっていたので、”もうダメだな”と思ったんです。でも、電話が通じるようになり、県外のお客さまからたくさん電話をいただきました。ガソリンがなくなったときに、山形県のお客さんが100リットルのタンクにガソリンを運んできてくださったり、地元のお客さまからも”いつお店開けるの?”と言っていただいたりして、やっぱり店を再開させたいと思うようになりました」
途絶えることのなかった
お客さんからの連絡
000263_02.jpg
 震災から100日が経過しても、闇市は津波を受けたままの状態で残されている。しかし、安達さんは仮設店舗での再開に向け、意欲を見せる。
「ここを壊してプレハブを建てようかと考えていますが、全然目処が立っていません。そこへ、仮設店舗があるという話を聞いたので、応募をしたところです。とりあえずそこが第一歩のスタート。私たちは命もあるし、気合いもある。あとは仮設店舗を確保して、自分たちの力でやれるとこまで頑張ります」
 震災以後、安達さんのもとに地元や県外のお客さんからの連絡が途絶えることはなかった。食糧や衣類などの支援物資も届けられた。長い間、闇市で愛されてきた佐藤鮮魚商店の再開を多くのお客さんも待ち望んでいる。
「どんなに小さなことでも、できることからゆっくりとやっていければ良いなと思います。よく”頑張って”と言われるけど、もうみんな頑張っているのでね。頻繁に連絡をいただいたり、支援物資を届けていただいたり、多くの方に助けていただいたので、私たちは復興で恩返しをしたいと思っています。必ず復興しますので、遠い目で優しく見ていてください」
取材日:2011年6月30日 宮城県塩竈市にて
Photo:Reiji OHE

PAGE TOP に戻る