アートリバイバルコネクション東北[ARC>T]

活動地域:宮城県仙台市

インタビュー:鈴木 拓(すずき たく)/アートリバイバルコネクション東北[ARC>T]

宮城県内にはおよそ70ヵ所の劇場があるが、震災後に再開したところはわずか1割ほど。アーティストはもちろん、照明や音響のスタッフたちなど、「東北にいる優秀な人材を流出させるわけにはいかない」と危機感を覚えた鈴木さんは、東北で活動する演劇人・ダンサーを中心に『ARC >T』を設立。震災を機に失われた文化・芸術に関する“ひと・まち・場の再生”を目的とし、避難所や学校のニーズを調査したり、公演やワークショップを行なっている。

目に見える”復興”と心のギャップを埋めるのが
芸術文化なのかもしれない

無力感から始まり、必然性を確信する

 宮城県で活動する俳優やダンサーなど、舞台に携わる人たちで構成された『アートリバイバルコネクション東北(以下、ARC>T)』は、東日本大震災を機に旗揚げした団体。そのきっかけは、想像を絶する現実を前に、事務局長をつとめる鈴木さんをはじめ、多くの表現者たちが自分の無力感を感じたことだった。

「震災直後、僕たちは何もできなかったんです。集まって話をするだけで精一杯でした。”自分たちで何か作品をつくって、子どもたちに見せよう”なんてことは誰も考えていなかったし、余裕もなかったんです。それでまずは”旗を揚げよう”と。その上で、僕らを求めてくれる人たちがいたら、そのニーズに応えることに徹して活動をはじめました」

 避難所で宮沢賢治の詩を朗読したり、絵本の読み聞かせをしたり、紙芝居やけん玉などを使って子どもたちと一緒に遊ぶことから『ARC>T』の活動が始まった。”とにかく何かできることを……”無力感を振り払うようにスタートした『ARC>T』。しかしある日、鈴木さんは活動の”意味”を見いだす。

「公園でメンバーが行ったダンス公演を観に行ったとき、お客さんたちが大声を出して笑っていたんです。震災後はみんな大きな声で笑うことができなくなっていた。150人ぐらいの人たちの笑顔を見て”(僕たちがやっていることには)こういう力があるんだな”と感じました。笑顔にできるのは、演劇やダンスに興味のある一部の人かもしれません。でも、100人のうちひとりでも救われるなら、やる意味があると思ったんです」

 震災から1ヵ月、2ヵ月、3ヵ月が経過し、震災以前の街に戻ったかのように見える仙台市内。そして沿岸部でも、瓦礫の撤去は進んでいく。そんな中、鈴木さんはどこか違和感を感じていた。

「僕は、”見た目の復興”と心のギャップをものすごく感じています。街中はものすごい勢いで復旧して、アーケードを歩く人たちを見ても平気そうに見える。でも、少し話すと全然平気なんかじゃない。こうした表層と深層のギャップを埋められるのは、もしかしたら芸術文化や表現なのではないかと思っています。復旧するときは、失ったものを悲しむ時期だったと思うのですが、これから復興に向かっていくときには、”今あるものを楽しむ”ことを一生懸命やれたらと。僕たちはとても小さな存在ですが、ちゃんと声を出して文化がどうあるべきかを提唱していかないといけません」

文化に携わりながら生活する感覚を
若い世代にも伝えていきたい

 2011年3月11日以降、宮城県内にあるおよそ70の劇場はすべて休館。6月の段階で再開した劇場はわずか7つ。こうした状況は、舞台で生活していた人たちに大きな決断を迫っていた。

「もともと地方の役者やダンサーは、舞台だけで生活している人は少ないですが、照明や音響などのスタッフはそうではありません。照明や音響の会社が廃業に追い込まれているのも事実ですし、厳しい状況がいつまで続き、いつから回復するのかまったく読めません。1ヵ月前に想像していた”今”でさえ、世界は全然違っています。僕は東北にいる優秀な人材を、外へ流出させるわけにはいかないと思っています。『ARC>T』を立ち上げて、劇場でなくてもできることをやりながらこの土地にとどまり続けたい」

 『ARC>T』のメンバーたちは、ニーズがあれば児童館や幼稚園、老人福祉施設などへ足を運び、表現者だからこそ可能なコミュニケーションを生み出している。別の仕事で生活を支えながらも、積極的に『ARC>T』の活動に関わる彼らは、文化に携わることの意味や必然性を痛いほど感じているのだ。芸術文化の役割を再確認した鈴木さんは今、もうひとつの目標を胸に抱いている。

「東北にも若い役者はたくさんいます。こんな大変なときに不謹慎かもしれませんが、彼らのような若い人たちが、生活のためにバイトをしなくてもいい状態にしてあげたいです。たとえ半年でも、1年でも、芸術文化に携わりながら生活している感覚を、若い人たちに与えることも大切だと思うんです。そうしたことは、これまで東北ではあり得なかったことなので、何かきっかけをつくりたい。震災のことも、今後作品にしなくてはいけないと考えています。ただ、あまりにも大きな出来事だったので、おそらく数年はかかると思います」

取材日:2011年6月29日 宮城県塩竈市にて
Photo : Reiji OHE

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