合同会社 顔晴れ塩竈(がんばれしおがま)

活動地域:宮城県塩竈市

インタビュー:及川文男(おいかわ ふみお)/合同会社 顔晴れ塩竈(がんばれしおがま)

塩竈にある御釜神社には、製塩法を伝えたとされる鹽土老翁神が祀られ、古代の製塩の神事も行なわれている。「顔晴れ塩竈」は、そんな“塩づくりの聖地”である塩竈をアピールすべく、昔からの製法で塩づくりを行なう合同会社だ。震災後、工房は神棚と竈を残すのみとなってしまったが、いちはやく活動を再開。元々塩を核とした食文化が根付いており、お菓子のなかに塩を入れたり、お寿司屋さんがネタの上に塩を乗せたりする。近年は洋菓子屋さんのスイーツのなかにまで入れるようだ。そうした独自の食文化を大切にしながら、地域の宝をアピールし、伝統的な塩づくりを後世に残すための“塩のミュージアム”を構想している。

000016_02.jpg

故郷に埋もれている”宝”を掘り起こし
町の人々が誇れる塩ミュージアムをつくりたい

“塩の聖地”塩竈に残った神棚と竃

宮城県の中央にあり、陸奥国一宮・鹽竈神社(しおがまじんじゃ)の門前町として知られる塩竈市。鹽竈神社の末社である御釜神社には、製塩法を伝えたと言われる鹽土老翁神(しおつちのおじ)が祀られている。塩竈はその地名にもあるように、古くから塩づくりが盛んだった土地だ。『合同会社顔晴れ塩竈』は、”塩の聖地”であるこの町を活性化させるために5年前に設立。水産加工業を本業とする及川さんの工房の一部を改装し、2年前から昔ながらの製法で塩をつくり続けてきた。

あの日、塩竈の町も津波に襲われ、神棚と竃だけを残してすべてが流された。

「友人が亡くなり、先輩も奥さんを失い、後輩は家族を失いました。私たちのまわりには、そういうことがたくさんありました……。工房も神棚と竃しか残りませんでした。こうした現実を見たときに、”我々がいち早く復興して、町のみんなと一緒にスクラムを組んで乗り越えていかなければならない”と思いました」

こうして『顔晴れ塩竈』は、5月16日に塩づくりを再開。及川さんは復興のために”スピード感ある町づくり”が重要だと話す。

「家を失い、仮設住宅に入居する人もたくさんいます。そうした人たちが安定的な給与をもらえるような産業をいち早く立ち上げないと、町そのものが沈んでしまう。塩竈は生マグロの水揚げ、かまぼこの生産が日本一です。かまぼこ屋さん、お菓子屋さん、みんな工場がダメになってしまった。復旧するためには1億、2億の資金がかかる。ただでさえ、厳しい状況下でしたから借財もあるでしょう。さらに二重の借財を抱えてできるでしょうか?」

海のことは、海のそばで伝えていく

及川さんは今、”塩”を中心に再び塩竈に活気を戻そうと考えている。そのひとつが塩竈の歴史を語れる”塩ミュージアム”を海に近い場所につくることだ。

「どこの故郷にも、埋もれている”お宝”があるはずです。それを掘り起こして町づくりや地域活性化のために動かしていきたい。ここは海の町です。海の者が山へ行って仕事はできないんですよ。海のこと、港のことを伝える人間が山の上で伝えるわけにはいかない。海のにおいを感じながら、そこを訪れた人が我々と同じ気持ちになって、海を感じて帰っていく。そのためには、海の近くでなければ意味がない。”もし津波がきたらどうする?”と尋ねられたら、私は”逃げればいい”と答えます。津波で施設がやられても、人が逃げられたらいいんですよ。施設はまたつくればいいんですから」

“塩ミュージアム”建設にあたり、問題となるのはやはり資金。瓦礫の撤去、仮設住宅の建設などに奔走する行政には頼れない。そこで、及川さんは町の人たちの力で施設をつくりたいと考えている。

「100円でも200円でも金額はいくらでもいいんです。塩竈市民から寄付をいただきたい。そのお金には、みなさんの気持ちも含まれているので、必ず後方支援をしてくれるはずなんです。県外に住む知り合いや親戚に”いい施設があるよ”と宣伝してくれる。つまり、寄付をいただいたみなさんが”営業マン”になるんです。こんなに力強いことはないですよ」

000016_03.jpg
御釜神社では、7月4日に花渕浜で海藻(ホンダワラ)を刈り取る神事、翌5日に神釜の水替神事、6日に古式にのっとり藻塩焼神事が行なわれている。

000016_04.jpg
工房にある神棚の真下まで津波が押し寄せた。及川さんが工房に戻ったときには、この神棚と竃のみが残っていたという。

(取材日:2011年6月29日 宮城県塩竈市にて)
Photo : Reiji OHE

PAGE TOP に戻る