百年後の福島に根付くものを はじめる「誰か」に自分がなる

日本で最も美しい村のひとつにも数えられていた福島県飯館村。丁寧で心豊かな“までいな”暮らしを目指していた故郷は放射能で汚染され、6000人の村民は全村避難を余儀なくされている。飯館出身で現在福島市で避難生活を送る佐藤さんが今みつめるのは、原発事故から復興した「100年後の福島」だ。

*この記事は「わわ新聞13号(2014.11)」に掲載されたものです。紙面記事はこちら

2_佐藤健太

ひたすら発信し続けた1年目

震災直後、佐藤さんは手に入れたばかりのスマートフォンで情報を集めていた。放射線に対しては、漫画『はだしのゲン』のイメージから、とにかく怖い印象を持っていたという。だが、ニュースで流れる放射線量の意味もわからない。

「なにもわからない状況の中で、疑問に思ったことをそのままSNSで発信しました。それ対する意見も素直に聞いてみたかった」。 素粒子学を学んでいた友人と毎晩のように話し合い教えてもらった知識も自分なりに噛み砕いて発信した。そのつぶやきは多くの人の目にとまり、佐藤さんは自然と外部から福島に来る人をつなぐ役割を担っていった。

「来る取材はすべて受けました。自分が無知であることの恥ずかしさもあったけど、勉強だと思ってやるしかない。取材も汚染地を案内するのもすべて勉強。とにかく情報を表にださなければ」。その思いだけで、寝る間も惜しんで発信した。事故から1年間はとくに壮絶な日々だった。

訴えた続けた発言は後に “愛する飯舘村を還せプロジェクト”「負げねど飯舘!!」の発足に繋がった。長期的な村民の健康・生活を守るため「健康生活手帳」の作成にも尽力し、現在は世界へふくしまを発信する「ふくしま会議」の事務局長も務めている。

新しい福島をつくる

そんな佐藤さんがいま取り組んでいるのが、まったく「新しい福島」をつくること。 そのひとつが、福島の子供たちが故郷への愛着や誇りを持てる新しい文化を目指したエンターテインメント「ロメオパラディッソ」(写真)だ。福島出身・在住の男性を中心とした、様々なパフォーマンスを織り交ぜた新しい舞台。旗揚げ公演には1日で1450名もの人が来場した。

もうひとつの側面として考案しているのが、福島にやってくる人への受け皿としての「震災復興記念館」だ。佐藤さんは福島市をエンターテインメントと厳しい現実を併せ持つ、宝塚と広島が一緒になったようなイメージの街にしたいと語る。

「長いスパンでしか見てないんです。宝塚歌劇団も結成100年目を迎えて、100年前に誰かが始めてる。その誰かに僕らはならなきゃいけない」。

2_佐藤プロフィール

佐藤健太(さとう・けんた )

1982年、福島県飯館村生まれ。仙台の専門学校を卒業後、消波ブロックの型枠のメンテナンスをする父の会社に従事。事故後、汚染された飯舘村の状況に危機感をもち情報発信をはじめる。「ふくしま会議」事務局長、「ふくしま新文化創造委員会」理事長。

文:わわプロジェクト事務局

 

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