震災からの気付きと教訓を 未来へ受け継ぐために

自身が生まれ育った陸前高田の地で、震災の語り部を行う釘子明さん。2014年6月、神奈川の大学生らが参加するその語り部ツアーに同行した。
*この記事は「わわ新聞12号(2014.8)」掲載されたものです。紙面記事はこちら

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 たった4分で失われたまち

「ここには5.5mの防潮堤がありました。地震が起き液状化現象によって沈んだ防潮堤を津波は簡単に壊してしまいました。ここに来た津波の高さは13・7m、ちょうどあの建物の“松原”の文字の高さくらいです」。 釘子さんの指さす先には、道の駅・高田松原タピック45がある。この建物のすぐ裏には、かつて岩手の湘南と呼ばれた陸前高田のシンボル・白砂青松の美しい高田松原が悠然と広がっていた。あの日、津波は海面を100〜120キロのスピードで移動し沈んだ防潮堤を越えまちを襲った。そのエネルギーは、1メートル四方に10トンのトラックが100台ぶつかるのと同じくらいだという。建物の中には、大きな松の木が1本突き刺さったままになっていた。

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津波は、道の駅・高田松原タピック45の「高田松原」の文字あたりまで達した。市はこの建物の保存を検討している。

 この3年で、まちを覆っていた150万トンを超える被災物は片付けられた。スーパーなど大きい建物もそのほとんどが取り壊され、残った家の基礎などもすっかり片付けられていた。旧市街地には雑草が生い茂り、梅雨入りしたばかりのこの日は、シロツメ草が咲き乱れ甘い香りを漂わせていた。

 今ここで目を引くのは「希望のかけ橋」と呼ばれる大きな吊り橋だ。旧市街地と高台移転先を結び、高台造成に伴い山を削る過程で出た土砂を運んでいる。暮らしの復興が急がれる今、この巨大なベルトコンベアがあることで通常10年ほどかかる作業が2年弱ほどに短縮できるという。  国道45号線沿いにできた慰霊碑の前で、一同は黙祷し手を合わせた。海岸近くのこの地域は、昭和35年のチリ地震津波で大きな被害を受けた場所で、釘子さんが幼かった頃はまだ一軒も家が建っていなかったそうだ。 「おばあちゃんやおじいちゃんは、こんなとこに家なんかたてるもんじゃないと言っていました。でもいつのまにかバイパスができ、防潮堤ができ、大丈夫だからと言って家が建っていった。それが今回の津波でみんな流された。だからこそ伝えることが必要」。そう訴える釘子さんの目は真剣だ。

 これから高田の海岸には12・5mの防潮堤ができる予定である。防潮堤の前には松林と人口の砂浜が再生する。防潮堤から手前側は防災公園になるという。しかし、この工事が完了しても今回と同じ規模の津波が来たら防ぐことはできない。あくまで100年に一度の地震を想定しての津波対策なのだ。

その避難所は 本当に安全か? 

震災から1年以上被災地を歩けなかった釘子さんは、支援ネットワーク・遠野まごころネットのメンバーとして語り部をはじめたことをきっかけに、2013年4月に一般社団法人「陸前高田被災地語り部」くぎこ屋を起業した。12棟の小さい仮設住宅団地に住みながら、自宅があった場所に事務所を構え、これまで全国から来た約1万3000人以上に自らの体験と教訓を全身全霊で伝え続けている。そこでは津波の脅威や被災の経験だけでなく、震災後から現在までのまちや人々の変化、震災前のまちの歴史なども同時に語られる。また、語りの中では、以前のまちの賑いや震災後に復活した祭の様子を記録した映像、被災直後の写真など、多くの資料が使われる。これだけの資料が集まっているところは珍しく、遠方から講演の依頼を受けることも多いという。

 海岸から約1.2キロの場所で一同はバスを降りた。この近くにあった市民会館、市民体育館は、そこが市の避難指定場所だったにもかかわらず、多くの方が亡くなった。克明に語られる当時のすさまじい状況。顔を歪ませる学生たちに、釘子さんは問う。 「この中で、自分の避難所に実際に行ったことがある方はいますか?」 ― 手は上がらない。釘子さんは、これから確実に起こるあらゆる災害に対し、人々があまりにも無関心であることを警告する。 「今回、昭和35年のチリ地震津波の浸水地域に避難所をつくったことで、高田市役所の方は責められました。でも私は行政だけの責任だけではないと思うんです。市民一人ひとりが、避難所に対してあまりに無関心だったのではないでしょうか。津波がくるから高台に避難しましょう、そう言われた人が言いました。『私たちの避難所は体育館になっているからそこに行きます』そういって多くの方が亡くなりました。」

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「希望のかけ橋」が高台造成の土砂を運ぶ

 その避難所は本当に安全か? 何人過ごすことができて、何が備蓄されているのか? 自身のまちの避難所について、あなたは考えたことはあるだろうか。避難所、病院、行政機関などは、災害の際の最後の砦になる場所である。私たちはそのことを知り、さらに自分たちのまちで災害が起きたときにそれらの場所が孤立しないまちづくりをしていかなければならない。釘子さんはそのことを身を持って強く訴える。

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陸前高田のまちを見渡せる高台で、「あの日」を語る釘子明さん。3.11の経験と気付きをどこにでも起こりえる自然災害への備えとして身をもって伝えている。

 リアスの地形と狭くなる陸地は津波を高くする。あの時、1年前のチリ地震の経験から予報よりもさらに大きな津波がくると直感した釘子さんは、すぐに自宅にいる母親と知人を車に乗せ、避難所の公民館に向かった。 「でもそのとき、まちの人はだれも避難しようとしてなかった。なぜかというと岩手県では最初3メートルの津波の予報、高田松原には5.5メートルの防潮堤があるから決してここまではこないだろう、とほとんどの方が思っていたんです。」 結果、陸前高田では浸水予想地域ではなかった地域で多くの人が亡くなっている。 震災から3年半経った今、ある大学の調査で東日本大震災では「海の見えない地区」より「海の見える地区」のほうが、居住者に占める津波犠牲者の割合が低かったことが判明した。釘子さんが住んでいたエリアも「海が見えない地区」だった。

 最後に、一同は海から2.5キロ内陸にあるまち全体が見渡せる高台に登った。ここは18メートルもの高さの津波が到達した場所である。釘子さんは津波がやってきたあの時を語る。津波はどんな姿で、どのような音を鳴らしてここまでやってきたのか。その時に見たもの、感じたこと。その時、人々は何をしていたのか…。

 

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 「陸前高田では、60箇所以上の指定避難場所のうちの三分の二が被災しました。大津波の後、お寺、高台の公民館など80箇所以上できた避難所を、人々は家族や知人を探して歩きました。そして最後に行き着くのがご遺体安置所なんです」。幸いに家族に会えた人も、あの時の経験がフラッシュバックし、今でも暗い闇を抱えている人たちがたくさんいる。震災の時、家族に会えない辛さ、苦しさほど辛いものはない。 「だから帰ったら家族と話して避難する場所を2、3箇所決めてください。大きな災害の際に役立つために。避難所を見直すことが自分の大事な人たちを守ることになるということです」。 釘子さんは、自らの経験や反省が、これからのまちづくりに、そしてひとりひとりの減災の意識に活かされることが、この震災でなくなった人たちの一番の供養と考えている。

 釘子さんが全身全霊で発する想いは、ここにやってくる人々にあの日を追体験させ、自然災害が自分の土地にも起こりうるという当たり前の事実を、実感を伴いながら知らせてくれる。地震、津波、台風、川の氾濫、火山の噴火。それらは、何億年も続く地球の自然現象の一部だ。自然災害の被害を減らすには、人間が変わるしかない。これから各地に復興公園、震災遺構、資料館など多くの記憶が残されていくだろう。それらを活かし、後世へどのように語り継いで行くべきか。その鍵こそ、「伝える」という人の意思と工夫であるということを釘子さんの語りから学んだ。

 

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釘子 明 (くぎこ・あきら)

震災後、陸前高田第一中学校の避難所の立ち上げや、大石公民館の復興の湯などのボランティア活動を行い、その後、職業訓練校にてパソコンの資格を取得して、 昨年の4月から、遠野まごころネットに所属し、ボランティアの方々に語り部活動を始める。2013年、内閣府の起業支援金の助成を受け、 3月7日に、元の自宅跡に事務所を開設し、一般社団法人「陸前高田被災地語り部」くぎこ屋をスタートした。

 文:わわプロジェクト事務局

 

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